君は僕に似ている
id:rir6さんへ。はてなには戻らないそうだけど*1、これで言及したことは伝わるかな。
それぞれの節はほぼ独立なのであちこち話題が飛ぶかもしれませんがご了承ください。また、rir6さんの指摘する「モヒカン族」の定義は現実の「モヒカン族」から大きくずれているということについては、分かった上で話を進めていきます。
発端
2006年02月24日 tks_period 『[人間][社会][文化][異文化]モヒカンvs能動的ムラ。ムラの内面を聞き出しているところが面白い。』
2006年02月24日 zonia 『[コミュニケーション][社会][興味深い]まさにムラ社会。/そういう考え方の人が自分の周りにあんまりいないのはなぜだろう。』こういう風に切断処理(=自分は違うと信じる)するモヒカン馬鹿が出てくるのに絶望するなぁ……
結局馬鹿にはどんな文章も理解出来ないということなんだろうなぁ。
モヒカン馬鹿の意味するところ
考えられるのは以下のとおり。
ところが自分はモヒカン族である自覚もなければモヒカン宣言をしたわけでもないので、1.と2.はない。だから、3.が考えられるわけだけど、なんだかそれは自己言及でrir6さんも馬鹿になるんだが、まあそんなことはどうでもいいや。これは今回の話の本質ではない。
レッテルを貼って切断処理を行い、優位に立つこと
さて、まさにそこがあなたが僕に似ているところだろう。人を「モヒカン馬鹿」と定義することにより、自分は「モヒカン馬鹿」とは違うことを信じているからだ。正当な理由がある、という反論は受け付けない。なぜなら、こんなに少ない文脈で人を判断しているのはあなた自身だからだ。あなた自身もまた「モヒカン馬鹿」に類するものであると言われても、文句は言えない。
僕は「まさにムラ社会。」としか言及していない。自分がムラ社会の住人であるかモヒカン族であるのかについて言及していないし、またその是非についても論じていない。ただ単に、「ムラ社会」と呼ばれる現象・状況にぴたりと当てはまっているからこう書いたに過ぎない。
そもそもモヒカン−ムラの排中律的な考え方に無理があるのでは?
あなたは【NWatch ver.4 - 「モヒカン族>ムラ人」について】でモヒカン族を以下のように定義している。
- 文言単独主義者
- システム論者
- 合理主義者
また、こんなことも言っている。
一言で言うならば「モヒカン族よ、思い上がるな」です。
が、どう考えたってこんなに純粋な、原理主義的な人がいるとは信じられない。少なくとも僕は違う。僕は時にモヒカン族的な性格も持つであろうが、またムラ社会の住人でもある。そういった人すべてが非難されるべきであるのか。そうではないだろう。
「切断処理」に見えるわけと、そこからつながる話
この節では、名誉を挽回するために*2ちょっと自分語りが混じる。さて、おそらくここが切断処理に見えるところなんじゃなかろうか。
そういう考え方の人が自分の周りにあんまりいないのはなぜだろう。
「そういう考え方」というのは、【ことばのリハビリ(のためにもっと勉強しないとなあと思い知る日々)】における以下の部分である。
性犯罪者に対する対応というのはネタに過ぎないけど、「友達とどういう意識で会話をするか」、というのは彼にとって彼の実存を賭けて戦うべき問題だったからだ。Hによれば、「自分の本音を相手にぶつけるなどということは裸で街を歩いているような恥ずかしい行いだ」、ということになるらしい。むしろ、その場その場の空気に自分を順応させ、相手を楽しませたり場を盛り上げたりすることが能力の証明であり、かっこいいことなのだ、と彼は言い切った。
僕が通っていた高校は自由な風潮で、また「生徒会自治」なんていうことを大真面目に取り組んでいた変わったところだった。そして自分もそれに大きく関わったし、それゆえしっかりとした考えを持つ友人・先輩・後輩を多く得ることができた。彼ら・彼女らは議論することがどういうことかをよく分かっていた。だから、「そういう考え方の人が自分の周りにあんまりいない」のだとは思う。
しかし一方で、現在の一般的な若者は上記で引用した考え方が多数派なんじゃないかとも思う。実際、母校においてもそういう人は増えていたような気がする。しかしやはり一方で、何も考えてなさそうな知り合いが実に的を射た意見を言うときも多々あった。きちんと話し合いや議論にのってくれることもあった。そのギャップについて、「なぜ」と思ったのである。
人にはいろいろな面があり、いろいろ考えている
意識的にであれ無意識的にであれ、ある一面だけを切り取って、それがすべてであるような物言いは避けるべきだ。あなたが思うほど、他人は馬鹿じゃない。いろいろなものを考えた上で、発言したり文章を書いたりしているのが大抵である、と認識するのがよいだろう*3。特に、往々にして人は、無意識的に「自分の読みたい文脈でしか対象を認識しない」ことがあるから、注意が必要だ*4。
あなたが指摘するモヒカン族についてもそうだ。あなたが言う純粋なモヒカン族が存在するとして、ではどういう理由でモヒカン族となることを選んだのか、それは分からない。対話を大切にするあなただから、純粋なモヒカン族の方を探し出して、一度話を聴いてみるのがいいのではないか。
僕はあなたが指摘するようなモヒカン族は存在しなくて、モヒカン族的でもありムラ人的でもある人が多いと考える。そう、人にはいろいろな面がある。いろいろ考えるから、状況に応じて、いろいろな面が生まれてくるし、変化していく。だから、ある一面を切り取って、それだけをソースにして、判断することには非常に大きなリスクを伴う。
同様に、web上に現れる人格というのもまたごく限られた一面に過ぎない。僕は、web上で果敢に噛み付いていくrir6さんしか知らない*5。だから、こういう一面を持ってrir6という人全体を評価することはできない。しかし、web上に現れるrir6さんについていえることなら、ある。
人を動かしたいと思うなら
自分が「生徒会活動」に関わった経験として話そう。次のような状況を思い浮かべてほしい。
評議会のようなものにおいて議論を行う際に、生徒の意見をあらかじめ調査しておくために、各ホームルームにたいして議題を添付した「意見集約用紙」を回覧する。その議題が、一般生徒を小ばかにしたような書き方だった場合、どんな反応が返ってくるであろうか? 明白だ。
一般生徒は何も知らない。実際そうであることが多いし、そういう前提で資料を作ることは非常に有意義である。しかし、その表現において「資料を作り、常に考え続けている自分たち執行部はえらくて、普段何も考えない君たちにわざわざ作ってあげたんだよ。さて、この議題の崇高な理念が分かるかい?」という態度をとるのはまずい。では、どうすればいいか、はもう分かるだろう。
最後に
社会や政治といったものに対する問題意識を持つという点では、おそらく君は僕に似ている。その「考える」という姿勢は、やめないでほしい(やめろといったってやめないだろうけど)。ただ、人を小ばかにしがちというのも、君は僕に似ている。いろいろな面を見て、最終的にどこに重心を見て判断するかは人によるけれども、くれぐれもごく限られた一面から人を判断することのないよう、アドヴァイスしておく(蛇足であるといいが)。