webと世間と社会とリアルと…

 前回の記事の書き方が悪かったのですが、「webはリアルだ」「webはバーチャルだ」「webはバーチャルなリアルだ」は並列の関係です。見方によってこの3つの取り方ができるということを示したかったわけで、自分がどう思ってるかとはほぼ無関係です。で、自分がどう思ってるかというと、「webはリアルだ」。どう転んでもwebに参加するのは人間であって、人間のつながりでしかない。だから、【〜大ブロ式〜 - (8)一つのリアル、二つのリアル】でもう一度定義されている“リアル”

自らの行動がその世界を変化させ、その世界の変化のフィードバックを受け自分も変化し次の行動へ、というループが成立していること。によって感じる生きている実感。

というのをすんなり受け入れることができます。だって人間だもの。

さて、世間

 考え始めたら泥沼ですね、これ。あやふやなものについて膨大な量を考えるもんだから、まったくまとまらない。全然まとまってないんですが、今ほんのりと思ってるのは、「世間2.0」は「世間1.0」をより拡張したものというか、結構共通的な部分を持っているんじゃないかなあということ。もしかしたら本質的な部分は変わらないかもしれない。たぶん自分が「人間のつながり」という観点で世間を見ているからだと思うんですが。

 今ある「世間1.0」とwebという「世間2.0」の違いは、前回の記事で書いた、webのバーチャルな部分だけだと思う。匿名*1で、かつ地域的なつながり*2を無視して*3、つながることができ*4、そしてそのつながりは容易に切りうるという部分。でもwebに参加するのも人間だし、現存の世間に所属しているのも人間だから、それ以外の部分は大きくは変わらないんじゃないかと。

 もちろん、その違う「だけ」と言い切った部分、世間1.0に含まれていなくて世間2.0に含まれるもの、いわば世間2.0的なものからまた新たなものが生まれるだろうし、実際生まれていると思う。きっとそこにsantaro_yさんは大きく期待しているんじゃないかなとも思う。そして、santaro_yさんの“リアル”の定義を受け入れた今、その世間2.0的なものは、バーチャルではなくリアルであると自分は認識する。誰だかわからないような、何処に住んでいてどんなことをしているのかも知らない、そんな人たちと容易につながって(あるいは離別して)、「自らの行動が」その人たち「を変化させ」、その人たちから「フィードバックを受け自分も変化し次の行動へ」というループが成立しているのだから。今まさにこの記事を書いているという行為がこの一連の流れにあたるわけで。

 肝心なのは、webをリアルとして受け入れるとどうなるのか、というところなんだけれど、これがさっぱり。っていうか自分はそもそもwebはリアルだと思っている節があったので、よく分からないんですよ。1つ思うのは、同一の言語圏で複数の「世間」ができやすくなるってことかなあ。で、その世間群が欧米における社会のように働いて、何かしらの保障をしてくれる、と。どの世間に所属してもいいし、しなくてもいい、みたいな。

 とまあうだうだ考えてきたんですが、まったく的外れなこといってるかもしれませんが、その際はご容赦ください。

*1:つまり、自分で自分を出す部分・量を調節でき、社会的・世間的立場を排することができる。

*2:地域的・地理的な条件は世間1.0では重要な要素だと思われる。

*3:もっといえば時間的なつながりも無視できるかも。

*4:でも言語の障壁は残るかな。