生死を語る怖さ――でも語りたいから

「で、みちアキはどうするの?」 - なぜ人を殺してはいけないのか】とか【煩悩是道場 - 何故人を殺してはならないか、への答えらしきもの】とかより。

注意

 ごめんなさい、だいぶ過激です。心臓の弱い方、精神的な病をお持ちの方などは以降お読みにならないようお願いします。

存在証明が揺らぐ

 「なぜ人を殺してはいけないのか」を考えていると、「なぜ生きているのか」「なぜ今すぐ死なないのか」「なぜ殺すのか」といった問いもなぜか自然に湧き上がってくるわけで、これを突き詰めていくと、「なぜ自分は存在しているのか」ということにまでたどり着いてしまう。すると当然、自分の存在証明は急に揺らぎだして、不安定になる。怖くなる。そういう時僕は、在るからには仕方ない、と開き直ることでなんとか踏みとどまるわけだけど、揺らぐ存在証明に興味がないわけじゃなくて、むしろ興味津々であり、また確固たる存在証明を持たねばならないかのような思いも抱く。そう思ってしまう自分にまた怖くなる。

 でも僕は忘れやすく楽観的なやつらしく、すぐ忘れて、日常に戻っていく。でもそれはただごまかしているだけであって、いつかはこの怖さの根源である存在証明について考えなくちゃいけないんだろうなあとなんとなく思っている。先延ばし、それで今は満足できている。だからこそ生死について語りたくなるのかもしれない。

 ここまではなんとなく思ったこと。さて、本題に移ろう。

生物を殺すことの是非

 そもそも、

なぜ人を殺してはいけないのか

という問いの前提に倫理が見え隠れしているわけであって、倫理を用いずに考えるならまず

生物を殺していいのか・いけないのか

に決着を付けなくてはならない。というか、決着付けなくても議論はできるんだけど、そうしたほうがたぶん分かりやすい。豚や牛を殺すことは許されて、人を殺すことは許されないということがあるのか。以下、背理法

 殺すことはいけない、と仮定しよう。ところが、人は知らぬうちにいろいろな生物を殺して生活している。風呂場のカビを殺すとき、「汚いから/害を及ぼすから」殺す。牛や豚を殺すとき、たとえば「食べるために」殺す。また、狂牛病にかかった牛は「役に立たないから/害を及ぼすから」殺す。じゃあこんな風に殺すことが正当化されるのはなぜなんだろうか? それはどうも、鍵括弧でくくった「理由」のところにありそうだ。

 たぶん、殺す立場から見てその「理由」が合理的であれば、殺すことは肯定される。もちろんそこでいろいろな天秤にかけられて、最終的に合理的と判断されるわけだけど。では「殺したいから」という「理由」は許されるのか? これもまた合理的であるから肯定されるだろう。殺せばその殺す立場のものは満足するのだろうから。

 ところがそうなると、殺すことはいけないという仮定と矛盾する事態が発生する。そもそもその判断自体が主観的なものであるし、単に「殺したいから」というのであれば誰でもいつでも持ち出せる。殺したいときに殺したいだけ殺せばよい。世は戦国、いわば「万人の万人に対する闘争状態」だ。

 ということは、どうも最初の仮定を誤ったらしい。殺してよい、のである。おそらく、“殺す立場から見てその「理由」が合理的であれば、殺すことは肯定される”じゃなくて、“生かす(=殺せる)立場から見てその「理由」が合理的であれば、生かす(=殺さない)ことは肯定される”んじゃないだろうか。「愛したいから」犬を飼って生かすし、当然、「めんどくさいから/利益がないから」殺さない、というのもありだ。

じゃあ人は殺していいのか

 人は生物だ。生物を殺してよい。したがって人を殺してよい。

人を殺しちゃいけない理由になってないな、と思った数点

 まずid:ululunさん。

だから今の答えは(仮だけど)

「その死を超えられる生を産み出す事が出来ないのなら、殺してはならない」ということになります。

 果たして本当に“できない”のか、という問題が残ってる。要は、遺伝子操作をして、より良い“人間”や、“人間”を超えるものを作ることができるかもしれない。そのためには人を殺すことは容認される、という展開になるわけで。できないものをできるようにしよう、というのが科学の基本姿勢の1つだと思うから、この理論だと、即人を殺してはいけないとは言い切れない気がする。

 次に、id:comnnocomさん。

どういうことかといいますと、よくあるじゃないですか、漫画とかドラマで「俺が死んでも、お前達の心の中に生きている」って言う台詞が。

 実は、それは時が解決してくれるんじゃないかと。100年か200年かたてば、殺した人を知る人もいなくなってしまうだろうから。時が殺してくれる。だから、人は時と共謀することによって人を殺すことができる。そんな風に思う。