僕がはて☆すたを使わない3つの理由

1.わざわざ押しに行くのがめんどくさい

 自分はfirefoxユーザーなのですが、マウスのポインタが大体タブ周辺から動かないので、わざわざ☆を押しに行くのがめんどくさいのです。ブクマするときはHatenabarを使いますし。Hatenabarに☆がついたら、はてスタも使うかもしれませんけどね。

2.既読の印としてはブクマのほうが優れている

 間違って登録したらはてスタは消せないのに対して、はてブは自由自在に消せますし、タグや検索があるから分類や掘り出しもはてブの方が優れています。

3.評価する方法としてもブクマのほうが優れている

 これはすごいと思ったら[これはすごい]とタグを打てばいいし、これはひどいと思ったら[これはひどい]とタグを打てばいいし、具体的にどういうところがすごかったりひどかったりするのかはコメントで書けばいいんです。

設置したままにはするけど押しには行かないかなあ

 というのが今のところの結論です。ただ、kanoseさんが【ARTIFACT@ハテナ系 - はてなメッセージは、はてな私書箱かと思ったら、はてなこっそりコメントだった】という考察をなさっていて、これは一理あるなあと思うので、「あなたが発する裏話や悪口を聞きたい!」という人には☆を押しにいくかもしれませんね。

 …ああ、言ってしまった。半分冗談ですよ。半分本気ですが。

【大前提にしたい】あなたにはあなたの、わたしにはわたしの使い方がある

 一般論として、リリースされてしまったwebサービスは、開発者の手を離れ、ユーザーが自由に使うことができるのではないかと思います。開発者が望む方向性であれ望まない方向性であれ、ユーザーはユーザー自身の発想・目的によってwebサービスを使っていけばいいと。

 ただ、この考え方が「○○という使い方が正しい」とか「△△のように使うべき」といった言論を即否定することではないことに注意してほしいところです。自分が良いと思う使い方を他人にも行ってほしい、という主張は尊重されるべきであると思いますし、こういった“洗脳大戦”はあっていいと思います。また、使い方を提案することによって、他のユーザーの発想が刺激されることもあるでしょうし、他のユーザーにとって少なくとも無益でないし、有益であることもあるでしょう。最終的には自分で決める、という原則さえ侵害されなければ、どんなことを主張しようと大体はOKだと思います。受け入れられるかどうかは別にして。

 それから、たとえばはてなスターについて、シナ千代さんから以下のような提案がありました。

あ。使い道として「○日の飲み会に参加希望者は☆」とかどうだ。ブクマより簡単。

あとは「同意・賛成のひとは☆」とか。

「はてなスター不要というユーザーよ、はてなを去れ」とjkondoは言った - シナトラ千代子

確かに一理ある提案なのですが、これをそのままやってしまうと、「既読の印として☆をつけたい」と思っているユーザーは☆をつけることができなくなってしまいます。まあこの場合は別エントリを立ててそこで☆投票を行うようにすればいいだけなのですが、このようにあるユーザーの使い方が別のユーザーの使い方を阻害してしまう可能性もある、ということに注意して…というよりも気づいていければいいと思いました。

はてな匿名ダイアリー(増田)に書かれたエントリへの信用性

ちゃんとまとめてなかったし、自分のブログに描いても見てくれる人はいないから増田に書いてみたよ。

javascriptを理解するためのたった2つの大切なこと

 基本的に、増田に書かれたエントリの内容については話半分に聞いておくことにしています。まあ、こういう技術系のエントリならまだ信用性は高いかもしれませんが、自分語りとかそういった内容のものはb:id:zonia:t:詩・物語として解釈しておくことがとても多いです。


 やはりidとひも付けされていない情報ですから、顕名で書かれているエントリよりは信用性を落として理解せざるを得ません。はてブのコメント欄を見ていると結構鵜呑みにしているような反応が見られます*1が、そういうのは極力避けたほうがいいんじゃないかなあと思います。


 増田と2chの最大の違いの1つは「はてなアカウントが必要で、書き込むにはログインしなければならない」という点ですが、それは最大の違いであると同時に、たったそれだけの違いに過ぎません。はてなのアカウントなんてメールアドレスさえあれば作れますから。


 多くの人が見てくれるけど信用性は低くなるのを選ぶか、見てくれる人は少ないけど信用性はある程度担保されるのを選ぶか。閲覧数と信用性を天秤にかけて、うまくバランスをとって利用していけるといいのでしょう。

*1:もちろん、「見える」だけで実際どうなのかわかりませんよ。

ネットイナゴが問題だって? それこそまずはてブで過去の議論を読み返すべきじゃないのか

 ネガティブコメントやネットイナゴがはてブで問題にされているようですが *1。この話題は今まで何度も何度も繰り広げられては忘れ去られていった話題なわけです。新しいユーザーの皆さんなら「そんなの知らないよ」というのが当然でしょうが、はてなスタッフが何をいまさら言っておるのだ、というのが正直な感想です。


 自分のブクマをちょっとあさっただけで、はてブはてブコメントをめぐる議論というのはわさわさ掘り返せます。まずはこういった議論をまとめなおしてみるくらいはしてもいいんじゃないでしょうか。そもそも「ブックマーク」っていうのは過去に重要だと思われたものを保存しておくのが主目的だったのでしょうから、そのために使わなくて何のブックマークなんだという気もします*2。それに、今は「このエントリーを含むほかのエントリー」という仕組みがブクマエントリページにあるのですから、関連した話題は芋づる式に引き出していけるのですし。


 また、はてブのコメントをめぐる論争は、コメント論争のみにとどまらず、はてブアイデンティティーそのものにかかわってくる問題だと思います。たとえばこんなエントリを発掘しました。

はてブにおける最大の疑問があるのはこういうところ。5000件登録して、後から読み直せるのかどうか? というか、何を登録したのかすら忘れてしまうのではないだろうか?

やっぱり、興味を持った記事に対する「投票装置」と、その「投票結果」と見る方が正しいのかな?

 さて、現在、4000件を越えるブクマを登録した私が来ました。
 はい。はっきりいって忘れています。で、自分の中での意味を説明しますね。

1:資料の収集
2:age.
3:コミュニケーション
4:投票
5:その他
6(追加):他人の感想を知りたいとき

とまあ、自分は自分の思惑だけで複数存在し、別のユーザーは別のユーザーの思惑で動いていることでしょう。そういう多面性も、はてぶの売りなのではないか、と考えています。

2006-02-13

上記引用の2・3・4・6にはコメントが関連してくるでしょうし、また「多面性」というのもコメントが生み出す部分があるでしょう。そしてもちろん他の要因も絡んできているはずです。コメントだけでなく、みんなが漠然と思っているはてブの長所や短所を、一度網羅的にまとめてみて、それから初めてどうすれば良くしていけるのかという議論が始まるのだと思います。


 話は前後しますが、突然に

今後のはてなブックマークのことを考えて、やはり目を背けていてはいけないことだと思っています。これまで聞こえなかった声を伝える、感動を与える、正しいことを知ることができるコミュニティとして作ったものが、誰かの表現や意見を抑え付けるために使われてしまうというのは、作り手として悲しいと感じるようになりました。「作ってよかった」と思い続けられるシステムであってほしいと思います。

と、こんなことを言われても、正直「今気になったから考えてるフリしてるだけ」みたいに見えちゃったりするんですよ。過去にはさまざまな議論があったはずなのに、そのときには表立った対応は見せず*3、世間的にちょっと著名な人が「ネットイナゴが云々」と言及しただけでこの対応振り。「ユーザーのみなさんとの対話を行って改善していく」ですって? じゃあまずはユーザーの皆さんがどのように考えていたのかを調べてみてはいかがでしょうかね。


 はてブが、開発者に、「ブックマーク」として利用されていない(ように見える)のがちょっと不憫です。ブックマーカーやブロガーが繰り広げた過去の議論が省みられないのもまた不憫です。ちょっと見返しただけで、さまざまなすばらしい考察や見解が見つけられるのに、なんとなく無視されてしまうのがたまらなく口惜しく思います。「目を背けていてはいけない」のは、コミュニティの問題ではなく、はてブの過去の蓄積そのものではないでしょうか。

*1:ちなみに、ネットイナゴ現象とは、本来はコメント欄がまるでイナゴの大群に襲われたようになることを指していたはずですが、コメント欄に順ずる場所にも適用されるようになったみたいですね。

*2:もちろん、現在でははてブの使い方は多様化していますよ。念のため。

*3:しなかったとは言いません。

ナンデスッテ・マップはその名のとおり「地図」であること

 にちのさんの【うどんこ天気 - 愛と友情のブログスフィア罵倒ダメ☆ゼッタイ×ナンデスッテ・マップ】はとてもよく整理されていてすごいなあと思いました。ただ一点だけ触れておきたくなりました。


 それは、ナンデスッテ・マップ上の立ち位置は常に変わりうるものだということです。多くの方がはてブコメントなどで立ち位置を表明されていらっしゃいますが、今回のいざこざを念頭に考えてそう決めている方もその中に多いと思います。しかし、当事者になってみたり、または別の事例になったり、近しい人が巻き込まれたりと状況が変われば、この立ち位置というのは変わってしまうものなのではないかなと思います。


 また、変わることが悪いことだとも思いません。一貫してひとつの立場に立つのもよいことですが、そればっかりに固執して逆にプレッシャーになってしまいかねません。時と場合に応じて変わりうるものではないかな、という考えを自分は持っています。


 そういうわけで、ナンデスッテ・マップはその名のとおり「地図」であり、そのときそのときの立ち位置を示すものでしかないと思いました。

「課される」or「課せられる」?

断片部のほうに書こうと思ってたんだけど、意外と長くなったし、最近ここを更新してなかったのでこっちにアップします。

2000円以下の科料が課せられます。

というのを某駅西口で流れている放送で聞いた。む、と思った。当然「課される」という言葉が続くだろうと思っていたので。

「課す」ってサ行五段活用だよね?

とすると、やっぱり「課される」の方が正しい。たとえば同じサ行五段活用の「落とす」なら、「落とされる」となるはずで、「落とせられる」とはいわないし。文法的にも、「れる」は五段動詞の未然形に接続するので、正しい。

でも実はサ変の「課する」もある

とすると、「課せられる」は正しい。文法的には「られる」はサ変の未然形「せ」に接続する。

んー、でもちょっとまて、サ変には未然形がもう一つある

「する」のもう一つの未然形「さ」には「れる」が接続するので、「課される」というのは、二重に正しい*1。さらにいえば、「せ+られる」というのは感覚的に文語調の文章で用いられるものであって、普通は「さ+れる」を使うと思う。たとえば、「抵抗する」なら、「抵抗せられる」ではなくて「抵抗される」を使うように。

どっちが一般的?

では、以下ではサ変の「課する」についてちょっと考えてみたい。「課される」と「課せられる」のどっちの方が一般的なのだろうか? google先生の調査によれば、google:課される]は約552,000件、[google:課せられるは約576,000件で、自分の実感とは異なり「課せられる」に軍配が上がった。

でもこれじゃあ引き下がらないぞ、ということで、他の「体言+する」型の動詞について、「される」と「せられる」のどちらが多いかも調べてみた。選んだ言葉は適当。

  される せられる
利用する 1,330,000 318
推薦する 179,000 6
プレゼントする 545,000 0
抵抗する 274,000 2
心配する 815,000 8

とまあこんな感じで、「せ+られる」というのはとても少ないみたい。これは自分の実感にも合致する。

結論

個人的には「課される」の方が自然だけど、「課せられる」と言うのは同じくらい一般的なようだ。不思議なのは、他の「体言+する」型の動詞では圧倒的に「さ+れる」が多いのに、「課する」という動詞については「せ+られる」という使い方も一般的なことだ。

*1:だからと言って正当性が2倍になるわけではまったくない。